どんなことをすればよいのか

 

背の高さまでのデッサン

 1982年10月のとある土曜日・・・N美術研究所4階にある紺色のソファでS先生はくつろいでいた。3時簡に及ぶ講評会が終わったところなのだ。研究生たちはみな急いで帰り支度をしていた。東海道線は30分に一本、御殿場線にいたっては8時台を逃すと10時過ぎまで電車がないのであった。

 くしゃくしゃの髪の毛をした高校2年生の男子研究生がやってきた。

「S先生、デッサンみてもらえませんか?」

見ると、デッサンというのは1、2枚のことではなく、B3のカルトンに挟まれた分厚い束のことらしい。S先生は立ち上がると、その男子研究生を階下の部屋に連れて行った。そこは油画のモチーフが置いてあって、床は乾性油が染み込んでテカテカしていた。

 カルトンのひもをほどき、最初の何枚かを見てS先生は言った。

「あのね、デッサンって何だと思う?」

S先生の右側に立っていた男子研究生は、答えられないでいた。濃い顎鬚の生えたS先生の右頬が見えた。S先生はそのままデッサンに顔を向けながら、

「デッサンっていうのはね、知ることだよ。」

と、髭ごしに言った。そして全部見終わらないうちにはっきりとこう言ったのだった。

「あなた、これ、背の高さまでやりなさい。いい、悪いは別にしてきっと何か見えてくるから。」

 その男子研究生はその言葉通りにしようと心に決めた。9時近くに帰宅すると、大急ぎで夕食をかき込み、風呂に入る・・・自室に引きこもってカルトンを構える。モチーフは家にあったガラス瓶やボール、野菜や肉など・・・とにかく手当たり次第に描いた。12時前の就寝までにB3のデッサンが1枚描ければ良い方であった。学業などは、美大を受けようと決めたときからとうに放棄していた。2年生の秋だったから4泊5日の修学旅行があったのだが、彼はスケッチブックを持ち込んで宿の屑篭なんぞを描いた。

 秋が過ぎ、冬が過ぎて春になった。ある程度デッサンがたまると、S先生のところへ持っていった。デッサンはくるぶしの高さになった・・・だが、そこでこの試みは終わりになった。原因は夕方5時から8時まで研究所で描いていたデッサンや油絵が不調に陥ったことだった。彼は今でもそうなのだが、一つのことがだめになってしまうと、もう他の事は考えられなくなってしまうのであった・・・彼がB3のデッサンを持って行かなくなったことについて、S先生はなにも言わなかった・・・

 

 彼はもう何十年もこのことを忘れていたのだが、最近ひょんなことで思い出し、そして考え込んでしまった。・・・デッサンが「知ること」であるならば、今彼がやっていることだって広い意味での「デッサン」ではないか・・・もしそうだとするならば・・・たとえばキャンバスの作品は木枠を外し、パネルの作品は桟を外す・・・そうしてあの高校2年生の時点から今までのすべての「デッサン」を積み上げていったならば・・・果たして背の高さまで行っているのだろうか・・・背の高さまで行っているのであれば、果たして彼には何か「見えている」のだろうか・・・あるいは彼はあの高校2年生の秋からいまだに「背の高さ」をめざしてデッサンしている途中なのかもしれない・・・

 

ハイデッガー

 背の高さまでのデッサンは果たして何を意味するのか・・・200枚入りの画用紙が厚み5センチだとして身長175センチの人間の背の高さまでデッサンしようとするならば、何と7000枚のデッサンを行う必要があり、一日一枚デッサンを描くとして何と20年もの月日が必要なのだ。7000枚、20年毎日行うデッサンではどのようなことが起こってくるだろうか?まず当然のことながら、7000枚、違うモチーフを描くわけにはいかない。モチーフは繰り返される・・・そして、その時々のテーマ・・・奥行きであったり、ボリュームであったり、動きであったり、そういうことも繰り返されるであろう。それどころか、心のありようでさえ同じ局面が幾度も繰り返し現われてくるのは容易に想像がつく。ひく線ひく線、全てが嘘っぽく見える・・・俺はもう駄目なんじゃないかという局面・・・目をつぶっても線がひけるように思える局面・・・それが何度も何度も繰り返し立ち現れるのである・・・

 ハイデッガーは「芸術作品のはじまり」で次のように述べている。・・・芸術とは何か?それは芸術作品によっておのずと取りまとめられる概念である。では、芸術作品は何によって芸術たりうるのか?それは芸術の概念によってなのである。芸術家は何によって芸術家なのか?それは芸術作品によって・・・では、芸術作品は何によって芸術なのか?それは芸術家によって・・・

 ハイデッガーはわれわれが同じ円環の内側をぐるぐると回っている指摘する。そして、この円環を踏み固めていくこと、道を踏み外さないこと、そして円環の中を見つめ続けることが強みなのだと説く。

 私は、この「円環を踏み固めていくこと」を、勝手に「恒星を巡る彗星の動き」になぞらえて理解している。彗星は恒星の引力に従って、繰り返し恒星に近付くのだが、その軌道は同じではない。軌道は少しずつずらされながら繰り返し輪を描く・・・これは、法則に支配されたものかもしれないが、カラマワリではない。むしろ、彗星にとっては恒星に近付くたびに、法則と分かってはいても、喜びに胸を高鳴らせる出会い作業なのではないだろうか。

 

パウル・クレー「創造についての信条」

 「美術は、眼に見えるものを再現するのではなく、眼に見えるようにするのだ。」

 “Kunst gibt nicht das Sichtbar wieder,sondern macht sichtbar.”

クレーのこの言葉を日本語で読むと、「眼に見えるようにする」の目的語は何なのかが気になってしまう。すなわち何を「眼に見えるようにする」のだろうか?

  ところがドイツ語で読むと、nichtが否定しているのはdas Sichtbarではなく、wiedergebenであることに気付く。すなわち、美術は「再現」ではなく、「行う」ものなのだ。わたしは美術を行えるだろうか?

© 2018 by Mikio Uraasaki.   mikiourasaki@gmail.com

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