BIOGRAPHY

まだ学生だった1985年。油絵の勉強をしていたわたしは、色面のかたちや大きさ、質感が画面にどう影響するのかを知りたくてコラージュを始め、たちまちその魅力に取り付かれた。異質なもの同士がぶつかり合い違和感が生じること、しかし、ある部分は溶け込み、つながりあい、新たなイメージが形成されていくこと、そうした効果にとても興味を覚えたのだ。

同じ頃、わたしはいろいろな人の話を聞いたり、読んだりして、「わたし」というものがじつはとてもあいまいなものであることを知った。そもそも「わたし」の中には、何があるのか…ひょっとしたら何もないのではないか…また、「わたし」の中のどこまでがわたしであって、どこまでが他人なのか…そうした疑いの目で見ると、わたしが描いた絵は、どこか真実味に欠けているように見えてくるのだった…

そんな時に、わたしにとっては、「わたし」と距離をおくという意味でコラージュはとても有効な手段だったのだ。

はじめは雑誌の切り抜きを貼り合わせて人物像を描いていたのだが、もっと立体的なものが作りたくて流木や石膏を組み合わせた作品を作るようになった。だが、立体化することで思うような効果を得られなかったことや、学校を卒業して、新たな状況に直面し、生活が混乱したことで、制作は5年間、中断することになった。

混乱が収まり、落ち着きを取り戻した1994年、私は9年前と同じように雑誌の切り抜きを貼りあわせることから再び制作を始めた。ただし、今回はつとめて絵画に焦点を定めて…「わたし」と距離をおく方策として、私はやがてデカルコマニーの技法を採用し、そうして作ったピースを貼りあわせて作品を作るようになった。
 
1997年から毎年、作品を発表するようになった。このころはセザンヌやフェルメールなど、既成の芸術作品のイメージをもとにコラージュ作品を制作していた。貼るということに焦点を当てるという意味もあったが、それよりもわたしは「わたし」が主題を定めることを回避したかったのだ。

ところが1998年頃から、わたしは画の主題として、身の周りの風景を取り上げるようになった。近所の林や桜の木、つつじややまももの植え込みが題材となった。落ち着いた生活がわたしの目を周りの景色に向けさせたようだった。あるのか、ないのか不確かな「わたし」の中をのぞきこむよりも、「わたし」の外側でいま光彩を放っているものに向き合う方が魅力的に思えたのだ。

2000年頃までに、わたしはたくさんの魅力的な風景と出会って、ほぼ次のように考えるようになった。…これらの風景は、魅力的だが、いつもその真実の姿を一瞬垣間見せたかと思うと、次の瞬間には消え去っている…あいまいな「わたし」はこれらの風景を到底捉えることはできないであろう。だが、「現れては消える」という、そのありようには向き合えるのではないか。

そうすると、画の中にあいまいな「わたし」をもっと取り入れても良いのではないかと考えるようになり、主題だけでなく、技法面でもより「あいまいなわたし」を取り入れることが多くなってくる。2008年頃から「貼る」だけでなく、「描く」部分を取り入れるようになったのは、その現れである。わたしは確信犯的にイリュージョンを用いて、あいまいなわたしが捉えるイメージを再現することをあえてしながら、一方でそれを相対化するという試みを行っているのである。

とはいえ、2010年を過ぎてわたしの中には別の考えも棲みつくようになった。たしかに「わたし」というものはあいまいで、それゆえにいつもこの魅力的な風景を捉え損なっているのだが、だからといって、わたしがこの風景の真実の姿に永遠に到達できないとは言えないのではないか…「わたし」の中になにがあるのか、「他者」とどう違うのか…そうした問いを軽々と飛び越えて、風景の真実の姿に到達した人や作品にわたしはまれに出会っているような気がするのである。