ESSAYS

04|これを描きなさいよ―ものの成り立ち

見えるものに惑わされてはいけない

1982年、9月のある月曜日。モチーフ台の上には浮き玉が載せられていた。それはその週のデッサンのモチーフなのであった。浮き玉は海でよく見かけるあれであるが、街中にあるビルの一室でこうして改めて対峙すると、実に巨大に見えた。…よく見るとこの浮き玉というのはなかなかきれいなオブジェで、「浮き」のガラス質は深海を思わせる濃い緑をたたえており、表面は蛍光灯に照らされてピカピカ光っている。結び合わされた頑丈な縄は海水ですっかり灰白色に漂白され、浮きの部分と好対照を成している。

浮き玉を前にしたN美術研究所の研究生たち…中には戸惑っているものもいるようだったが、何人かは得心したように画板に向かっていった。研究生の一人である私も懸命にガラスの表面に浮き出た蛍光灯の形を練りゴムでぬぐい、縄の目を鉛筆で追っていった…

土曜日になった。N美術研究所では、毎週土曜日に一週間分の成果を壁に貼り出して講評会を行うのが常だった。その日は浮き玉を描いたデッサンが貼られていた。デッサンの前にはモチーフ台に載せられた浮き玉もある。講評会が始まった。長い木製の指示棒で床をこつこつと叩きながらS先生がしゃべり始めた。

「今、あなたたちにはいろんなものが見えていると思う。」

S先生は指示棒で浮き玉の表面をなでるように動かした。

「でも…」

ここで鈴木先生は浮き玉の表面をごんとたたいて、

「これだけのウァっとしたものがあるわけでしょ。」

といった。この「ウァっと」とか「グっと」とか「フっと」とかいう表現はS先生独特の言い回しであった。何かすごいもの、すさまじいもの、強いもの、そうした言葉にならない何かを表現するときによく出てくるのであった。S先生はたたみかける…

「これを描きなさいよ。」

私を含めてS先生の講評を聞いた研究生はウーンと考え込んでしまった。S先生の言っていることは分かる。恐らくS先生はディティールにこだわるな、それよりもこの浮き玉の重みや堅さ、量といったものを表現しろといっているのだ。でもどうやって…?

ものを描くということは、ものの見方を捉えなおすことである

ものそのもの、あるいは物の底に沈んでそのものの中核をなしているようなものがある、という考え方がある。そして、そのものの目印の役割を果たしているようなものが周りにびっしりとくっついているのである。目印は、感覚で捉えることができるが、ものそのものはわれわれの感覚では捉えられない。

いま、S先生の『これを描きなさいよ』という言葉は、高校生のわたしには『ものそのものを描きなさいよ』というように聞こえてくるのであった。だとすれば、これは途轍もなく難しい課題であった。ものそのものは感覚では捉えられないのだ。いったい「目に見える」という感覚を除外してどうやってそれに近づくのか?わたしたちの見ている目印-浮きのガラス質のピカピカした感じや縄の目のがさついた感じが仮象なのだとすれば、いったい何を手掛かりにしてものそのものを描けばよいのであろうか。

ほかの予備校と同様にN美術研究所にも参考作品というものがあった。過去の研究生が描いた優秀な作品がとってあるのである。

「こう描けばいいというんじゃあないからね。」

S先生は念を押しながら浮き玉の参考作品を壁に張り出す。私たちは目を見張った。そこには真っ黒な塊があって、真っ白な空気が周りを取り囲んでいるようだった。よく見るとそれは浮き玉で、縄や蛍光灯のハイライトもちゃんと描かれてある。だが、それは中央から端に向かってトーンが緩やかに淡くなるように工夫がされており、画用紙の向こう側にまでゆったりと空気が通っているように見えるのだった。「こういうことだったのか…」今まではどうしても見えてこなかったものが、今は俄然、そうしたものとして、いや、そうしたものとしてしか見えて来ないのであった。

そしてもっと不思議なことに、わたしにとって実際のもの(・・)とは、わたしが目(・)の(・)前(・)に(・)見て(・・)いる(・・)そのもの(・・・・)だったのに、その参考作品を見た後では、その参考作品の見え方(・・・)こそが本当のもの(・・)であるように思えてくるのであった。

そう、感性が集めてきたものは悟性に照らされてはじめてわたしの前に像を結ぶのであった。

とはいえ、ものそのものはものの見方の寄せ集めではない

S先生の言葉は煎じ詰めれば次のようになるだろう。

「これを描きなさいよ。見えているものを使っても構わないが、それに惑わされてはいけない。この見えないものを描かなければならない。」

この「見えているものに惑わされない」こと、「見えないもの」を常に意識していることは苦しい体験であった。そもそも感覚に訴えてくるということは、それが魅力的だということなのである。それに信頼を置かないで、悟性でしかその存在を予測できない「見えないもの」に照準をあて、ひたすらそれが画面に立ち上がってくるのを待つ…高校生のわたしにとって、それは禁欲的な作業だった。わたしは夢想するのだった。これは「受験勉強」なのであり、受験が終わった暁には『もの』との関わりなどではなく、自分の中にあるものを自由に表現するのだ…

だが、いざ受験が終わってみると、自分の中には大したものがないことに気づいた。それどころか『自分』という概念さえ怪しく、その『自分』が『思い浮かべる』というという行為にいたっては、外からやってくるもの(感覚)との協働なくしては成り立たないことが分かった。そして、ついにはものとの関わりを通してしか作品が作れないと思うようになったのだった。

しかし、ものと対峙してあらためて思うのは、ものは実に多くの「ものの見方」をまとっていることである。先の重さや堅さ、堅牢さといったものも、浮き玉に対するひとつの「見方」であって、「浮き玉そのもの」ではない。「ものそのもの」…本当にそんなものがあるのだろうか・・・わたしは長い間、半信半疑であった。

あるかもしれない。ここのところ、時折、チラリとではあるが「見えないもの」を目の端にとらえたような感覚に襲われることがある。これは錯覚かもしれない。だが…たとえば、わたしは毎朝自転車で駅まで走っていく…近くを流れている引地川が見える…朝露にぬれて絵の具箱をひっくり返したように見えることもあれば、曇天の下、墨を流したように見えることもある…繰り返し繰り返し同じ風景を眺めているうちに、「あっ」と思うような感覚に襲われることがある。…それが何度もある…ものにはふだん隠されて見えないところがある…それは確かなことのように思う。

S先生の声が聞こえるようである。S先生は引地川の水面や土手の桜の木を指示棒で指しながら言う…

「これを描きなさいよ。見えているもの、見えていないもの、何でも使って構わない。ただし、あなたが見てきたものに惑わされないこと、いま、これがこう見えているように描かなければならない。」