ESSAYS

06|きみたちは何もできない―思い浮かぶこと

現代美術講義

1986年、わたしはやっと念願の「現代美術」を受講することができた。必修科目の語学や教職科目との兼ね合いで受講できなかったのだ。

担当はU氏である。U先生はたいてい濃い色のジャケットを羽織ってやってくる。そして、おもむろにマイクを手に取って話し始めるのだ。U先生の講義は思想や経済、技法など、様々な角度からであったが、徹頭徹尾一つのことをテーマにしていた。先生の著書にも照らし合わせながらそれを要約すると、次のようになる。

…まず、モダンというものは、永遠不滅のものではなく、むしろ一過性のものなのであって、今や衰退の一途をたどっている。

近代人は強い自意識であらゆるものを理念で捉え続けていった結果、ついに全世界は理念で満たされることになったのだった。

もはや世界のどこへ行こうとも、わたしたちの見出すのは人間の理念なのであって、そこに新たな出会いや発見は期待できないのである…

話を終えるとたいていU先生は、受講生たちに投げかけるのだった。

「果たしてきみたちは作れるのか?」

少し間を置いて、黙っているわたしたちを見渡したあと、U先生はため息をつくように自分で答えるのだった。

「君たちはなにもできない。」

私はミケランジェロやアングルが大好きで、美術とは「最後の審判」や「グランド・オダリスク」のことであった。画集を繰ってそれらの画を眺めるのは至福であり、彼らのように描くのは無理だとしても、少しでもそれっぽい画ができれば嬉しいのであった。

それが美術大学をめざして受験勉強を始めると事情が変わってくる。同じく美術に関わる人たちと交流するようになって気づくのだが、どうやらわたしの「美術」は古臭いものらしいのだ。「新しい酒は新しい革袋に」…時代背景や置かれた状況が違うのになぜミケランジェロやアングルなのか…心地よさ、美しさといったものは昔のことで、今は表現の背後に明確な思想が流れていなければならないのだった。この時代のかたちとは、どろりとした液体のような空気の中にぼんやりと浮かんでいるのではなく、明るく、乾いた空間の中で克明に語られなければならないのであった。

図版で遅まきながら現代美術というものに接してみる。ジャクソン・ポロック、ジャスパー・ジョーンズ、イブ・クライン…見ていくうちに面白いと思った。その軽さ、薄っぺらさがかっこいいと思った。それらが示すものの考え方、旧来のものの見方に対するアンチテーゼがなんとも痛快であった。それは、わたしが美大受験の勉強をしていたことにも多分に関係している。受験勉強というものは右肩上がりというわけには行かず、常に一進一退、苦しいものなのだ。泥田の中でのたうちまわっているかのようなこの受験勉強が終わったら、爽快な現代美術の世界に入っていくのだ…いつしか私は自分に言い聞かせていた…

だが、大学に入るとやがてどうしようもない閉塞感に襲われるようになる。「何もすることがない。」のだ。自分のやっていることは、すでにどこかで見たような気がする・・・自分のやっていることは、もうすでにやられていること、どこかよその場所で別の人間にやられてしまっているに違いないと考えることはやりきれないことであった。

「君たちは何もできない。」

恐ろしい言葉であった…U先生の言葉を待つまでもなく、私は薄々感づいていたのだった。U先生は、私たちの感じていた閉塞感の正体をきれいに説明してくれた。私は目の前の霧が晴れる思いであったが、同時にそれは、私が大好きだった《美術》のなかに私の居場所がないことを白日のもとにさらすことになったわけである。

それでもわたしは貧乏性なのであろう。大学にいる間は自分に言い聞かせるようになにかしら作っていたのだが、大学を出て、5月に個展をやってしまうと、急速に制作意欲が衰え、1年も経つと何もやらなくなってしまった。

アルバイト以外にすることがなかった。何もしないのは辛いことであったが、その内もっと辛いことになった。何をしたら良いか見当もつかなくなってしまったのだ。恐ろしかった。

想像すること、思い浮かぶこと、スクリーンに映し出されること

世の中は好景気らしかったが、アルバイトで日を送るのは辛かった。何かを作るための時間が欲しいためにアルバイトをしていたはずなのに何も作らなくなってしまった。Uゼミで一緒で、Uさんのお宅にキャンバスを張りに行ったこともあるYという男は、卒業後、しばらくアルバイトをしながら暮らしていたのだが、ある日とうとう就職した。

「俺、就職して落ち着いてものを考えられるようになったよ。」

Yがこう言うのを聞くに及んでわたしも就職することにした。

そして十数年が経過したある日、車でテニスに行く途中だったが、FМから松任谷由美の「守ってあげたい」が流れ始めた。

「…初めて言葉を 交わした日の その瞳を 忘れないで…」

最初のフレーズを聞いて背中に悪寒が走った。そして思いあたった。

著書の中でU先生が述べている「思い浮かべること」とは、ドイツ語のvorstellen 、つまりvor(前へ)stellen(置く)から採ってきているのだが、脳なのか胸なのか腹なのか分からないが、人の身内に浮かび上がってくるこの感覚はvorstellenと呼ぶべきではなく、empfinden(知覚する)と呼ぶべきもので、英語ならばimagineあたりがしっくりくる。  
   
そして、松任谷の身内にこのフレーズが浮かび上がってきたことに比べれば、その他のこと、車も、CDも、CDプレーヤーも、曲のアレンジや演奏や、松任谷自身の歌声でさえも、尊さとしてははるかに劣るのだと思い当たった。つまり、わたしは「意識」というものを敵視するあまり、随分長いこと、自分の身内のスクリーンに映し出されるものを軽視してきた(今、U先生の本をよく読むならば、私の解釈が誤っていたことは明らかなのだが)のだが、今、誤解を恐れずに言えば「思い浮かぶこと」(「思い浮かべる」ではない)こそが全ての価値のはじまりであることに思い至ったのだった。